真選組は幕府の犬だ。
 今の世の中を受け入れ、天人の存在を容認した憎き幕府の犬。
 主人である幕府に尻尾を振り、敵とみなした者には容赦はない。
 攘夷志士達の目前に立ちはだかる、邪魔な存在だ。


「そんなら攘夷浪士たちは、何やろなぁ?」
 女の嬌声、三味線……淫靡と優雅の入り混じる、夜の隔離された空気を放つ場所。
 肌を合わす空間であるはずなのに、欠片も肌蹴ることのない男女が一室を貸し切っていた。
 部屋の入り口となる襖の前には異様な空気を纏う男が数人陣取り、その場に何人も踏み込ませることを拒んでいる。
「さァ? 知らねえよ」
 女の酌を受け、杯を傾けて男が笑う。
 行儀悪く片膝を立てかけているが、誰もそれを咎めようとはしない。
 その片目の男の左隣に胡坐を掻いて座るヘッドホンをした男は、続けて酌をしようとした女を手で制して首を横に振った。
「拙者は手酌で構わんでござる」
「そう? 万斉さんは奥ゆかしいお人やねえ」
「てめえみたいに笑顔の裏で何してるか判らねえような女、信用ならねえんだとよ」
「失礼な男やわ」
 傷付くわぁ、と嘯きながら、女は笑顔で再び片目の男に酌をする。
 男もまたその酌を目を細めて受けた。
「──そんで?」
 杯の中身を一瞥し、男は口の端を上げる。先ほどから呑んでいる酒に変わり映えはない。
 終わったはずの話題の先を促す言葉に女は笑みを納め、顔を男へ向けて一つ瞬きをする。
「問うっつうことは、お前なりに応えは出してあるだろ? 
 名を呼ばれ、女はゆったりと微笑を浮かべて頷いた。
「一度受けた恩義は忘れず主と定めたものの復讐を成し遂げる為に命を懸ける、化け猫。……言うところちゃう? 気紛れで飽きっぽくて自分勝手なあんたにぴったり」
「それは拙者も同意見でござる」
 顔を上げ、ヘッドホンをした男が同意した。
「うっせえよ万斉。なァにが化け猫だ。気紛れで自分勝手なんてのァ、てめえにも当て嵌まってんだよ」
 不機嫌そうに煙管の先を向けられ、はくすくすと笑った。
「せやったらお猿さんでえぇんちゃう? 犬猿の仲、言うし」
「お山の大将、とでも続けたいか?」
 剣呑な響きを帯びる男の視線に怖じることなく、は笑みを絶やさない。
「自分勝手に墓穴掘っておいて、都合悪くなると切れるのはお門違いや」
 ねえ万斉さん。
 問いかけるはずの言葉をふいに途切れさせ、は笑みを消した。
 気が付けば周囲から何の音も聞こえて来ない。
 どこか張り詰めた空気が建物全体を覆っているようである。
 タイミングを見計らうように、襖の外から男の退出を促す言葉が密やかに漏れ聞こえて来た。
「──潮時か。お前はどうする」
 男はその声に短く応えて立ち上がり、座り込んでいるを見下ろす。
「一緒に行くとうちまで疑われるさかい、居残らせて貰うわ。途中足手纏いと捨てられるんは嫌やし」
 笑みを形作ったを見下ろし、男は口の端を歪めた。
 保身だけではなく自らの立場を弁えて居るらしい発言は、好感を持つというより変わらぬ女の性根が垣間見えて可笑しかった。
「違いねえ。土産は有難く貰っておくぜ」
「ほな、また」
 万斉と呼ばれた男が持つ風呂敷袋を視線で示し、男は部屋を後にした。
 速やかにけれど物音を立てることなく去る複数の足音が、耳を澄ませば聞こえてくる。
 側に控えていた者達と、建物から脱出するために移動して行ったのだろう。

 建物全体が騒がしくなるのを肌で感じながら酒を注いだ杯に手を伸ばし、は一気に煽った。
 飲料水と同じように喉を滑っていった酒は、直ぐに効果を表す。
 酒に弱い体調は急激に体温を上昇させていく。
 真選組だ、と野太い声が響き、誰かを探しているらしい荒々しい物音と時折悲鳴が入り混じる。
 家具や食器類が犠牲になっているようだ。
 破壊音が段々と近付いてくるのを聞きながら、はゆっくりと立ち上がり部屋から出た。
 動悸が激しく息切れし、呼吸が乱れる。
 帯を少し緩めたいなと思いながら、上昇した体温で熱い頬を掌で覆った。
「高杉、何処だーっ!!」
 聞き覚えのある声が荒々しい足音と共に近付いてくるのに、は細く息を吐き出しながら顔をそちらへと向けた。
 眩暈を感じて瞬きを繰り返し、激しい動悸と息苦しさが、まるで愛しい人を待つ瞬間のようだ。
 思って、は自嘲気味に頬を上げる。心奪われる存在など、此処には居ない。
「高杉ーっ!! ……っと、姐さん?」
 叫ぶ声が奇妙に裏返った。
 その普段では聞くことのない沖田の声に、は今一度視線をくれる。
 不思議そうに目を丸くする様子を見て楽しげに笑い、笑うことでずれた重心ではその場に座り込んだ。
 立ち上がろうと踏ん張るが、腰が抜けてしまったのか足に力が入らない。
「こんなところで何してんですかィ?」
 を露ほども疑っていない沖田の怪訝そうな顔にまた笑い、差し出された手に掴まりなんとか立ち上がる。
 だが足元はふらつき、沖田に支えて貰いなんとか立っていられる状態だ。
 情けない自分の状況に、はまたおかしくて笑う。
「常連さんに連れられてきたんよぉ。久しぶりにお酒呑んだんやけど、ほんま、あかんねえ」
「姐さんどんだけ呑んだんですかィ?」
 余りの酩酊振りが普段のと釣り合わず、沖田は自分が此処に居る理由を一旦棚に上げることにした。
 この状態のを捨て置くことはできないので、一度戻って山崎などに身柄を預けなければ探索も進まない。
 焦燥感が頭を過ぎるものの、どこか冷めてしまっているのも事実である。
 を放って探索を続けようが、高杉は既に姿を消してしまっているに違いない。
「んー? 何杯やったかなぁ? せやけど心配せんでええし。大丈夫大丈夫。沖田さん、おおきにねぇ」
「全然大丈夫じゃありやせんや。山崎ィ!! ……っち、まだ近くに居やがらねえか。んじゃ土方さんでいいや。ちぃっと手ぇ貸して下せえ」
 を引きずるようにして移動しながら山崎を探す沖田は、土方を見つけて声を掛けた。
 その場にそぐわない声で呼び止められ、土方は柳眉を逆立てて足を止める。
「人を暇人みたいに呼ぶんじゃねえ! ……っておい、和菓子屋じゃねえかっ。何でこんな所に」
 高杉を追って、今真選組はこの建物に突入している。
 この建物はいわゆる男女の密会を斡旋している会社の持ちビルであり、一般人がおいそれと潜り込める場所ではない。
 この場所を以前から使用していたのか、疑問が湧いたが酩酊状態のを見ればそうではないだろうと思い直した。
 確かに表と裏の顔を使い分ける連中を何人も知っている。
 その人種には当て嵌まらないと、今までの付き合いの中で感じていた。
 だからこそ、この場に居るの存在が信じられない。
 だがこの前後不覚の酩酊状態からして、誰かに連れてこられたのだろう。
 一人で来れる場所ではないのだから。
「土方さん、高杉の姿はないようです」
 捜索に当たっていた隊員が土方に報告する。
「そうか、逃げられたか。くそっ。……おい、和菓子屋。お前何か見てないか?」
 恐らく逃げ惑う客に紛れて逃げたのだろう。
 以前から張り込みをして突入したのはいいが、何も知らない客が多い。
 そして彼らが隠れ蓑になり、高杉達は逃げおおすことができた。
 高杉が誰と此処で会合を持っていたのか、その情報は真選組に入ってきてはいない。
「……あー、こんばんはぁ、土方さん」
 ぼんやりとが顔を上げて笑った。
「あぁこんばんはって、寝るなー!」
 気の抜けた笑顔を残しては昏倒し、どれだけ揺さぶろうと目覚める気配が感じられない。
「あーらら」
「総悟……どこで拾ったんだ」
 周りの喧騒を全て無視したは、沖田に支えられたまま顔を赤らめて健やかな寝息を立てている。
「この先の部屋の前でさァ。まあ、姐さんが高杉とどうこういう絵柄は全然面白くないんで候補には入れやせんが、連れとこの騒ぎではぐれてちまったんじゃねえですかィ? こんな状態の姐さん放って逃げる奴なんて、碌な奴じゃねえことは確かですぜィ」
「面白い面白くねえの問題じゃねえよ」
 けれども沖田の言うことにも一理あるとは土方も感じている。
 この場所へを連れ込んで、この状況でを残して消えたのなら、相手はやましいことを考えていたに違いない。
 しかしその相手をしょっ引こうにも探そうにも、寝入ってしまったが起きない限り、何の情報も得られないのだ。
「収穫無しかよ、ったく」
「女人一人確保でさァ」
 沖田はを土方へ押し付ける。
 土方の頬が引き攣るが、沖田は肩を回して歩き出してしまったために結局を引き受ける形になってしまった。
「……確保じゃねえよ。世話押し付けられたんだよ」
 大捕物のはずが獲物には逃げられ、いつも通り結局店に迷惑をかけただけだった。
 その上前後不覚になった酔っ払いの保護を、暗黙のうちに押し付けられている。
 踏んだり蹴ったりとは、まさにこの事だ。


 *


 襖に阻まれながらも、部屋の中を侵食してくる色がある。
 暖かなその朝日に瞼を刺激され、は寝返りを打った。
 そして見慣れぬ部屋の布団に寝かされている自分に気付き、ぱちりと瞼を上げた。
 横になったまま耳を澄まして周囲を窺い、不穏なものがないことに安心して上半身を起き上げる。
 遠慮がちに緩められた帯と部屋の中を交互に眺め、記憶を辿る。
 昨夜、残った酒を一気に煽って沖田に会ったのは覚えている。
 それから、土方の声を聞いた気もする。
(……お酒、もう少し呑み慣れな)
 たった三杯、しかも最後は小さな杯を一気に煽っただけで酔っ払い、醜態を晒してしまった。
 真選組の目を逸らすための作戦ではあったが、少しやりすぎた感はある。
 知らない場所であるが、恐らく真選組の屯所なのだろう。
 自宅へ連れて行かれても寝入っていた自分では施錠を解除することはできず、その上家主の許可もなく人の家へ入ることなどする不作法な集団ではない。
 故に屯所の客間へと連れて来られたのだろう。
 隊長の人望があってこその集団で、だからこそは彼らを嫌いになれないでいる。
「一宿の恩義は返さなあかんねぇ」
 起きて布団を畳み身支度を整え、は部屋から出た。
 台所は何処だろうと左右を見渡すと、丁度山崎がの様子を見にやってきたところだった。
 廊下に出ているに安心したように笑み崩れた。
「お早うございます、さん。ご気分はどうですか?」
 二日酔いなどになってはいないかと心配してくれる山崎に、は頭を下げる。
 泊めて貰った上に心配までして貰うというのは贅沢だ。
「ほんに迷惑かけてしもうて、堪忍え」
「あぁいえっ、此方こそ一室と布団しかお出しできなくて……っ」
 慌てたように胸元まで上げた両手と頭を横に振る山崎に、茉莉はゆっくりと顔を横へ振った。
 体温を奪われぬよう毛布くらいは貸し出すだろうが、一室まるまる貸し出してくれたのはが女だったからだ。
 感謝こそすれ、もっと良い待遇をと望むのは贅沢だ。
「ほんまおおきに。迷惑かけたんは此方の方やもの、布団一式貸してもろて助かったわぁ。うちももう少し酒に慣れておかんと、またいつ醜態晒すか判らへんものねぇ、恥ずかしいわぁ」
「大丈夫ですよ。なんかいつもと違うさんで、面白かったし」
 済まなげに眉を寄せたに山崎は笑いながら首を横に振った。
 面白かった、という単語には僅かに眉を寄せたが、山崎はその些細な変化に気付かない。
 いつも毅然とし温和な笑顔を浮かべているしか見た事がないのだ、昨夜の醜態も眉を潜める表情も知らないのだから気付くはずもない。
「ところで、何杯くらい呑んだんですか?」
 台所へ行くという山崎と連れ立って歩き出す。
「ほんのお猪口三杯くらいやったと思うわぁ」
「えぇっ!?」
 最後の一杯は一気に煽ったとは言わない。言った所で驚かれることに変わりはない。
さん、本当にお酒ダメなんですねぇ」
 呆れたような感心したような、溜息と共に山崎が言った。
「せやから少しずつ慣れよ思うんやけど、なかなか上手く行かんものねぇ」
 後を安心して任せられる人が居るのならば、呑んでしまっても構わないだろう。
 けれど昨夜は真選組が居たために出た暴挙であり、通常は酌をするのみで呑むことはないので、そうそう好機が回ってくるとは限らない。
「帰るんでしたら送ります」
「あぁ、それなんやけど」
 出入り口へと半ば強制的に案内されかけていたはぴたりと足を止めた。
「一宿の恩義、返したい思うて」
「はあ……」
 笑顔のの申し出を承諾しながらも、山崎は何をするのか判らず首を傾げる。